アイヌについてはわからないことが多いですが
改めて考えてみたいと思います
アイヌ民族とは
https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/history.html
何時からアイヌ民族が存在し、どの様に生活してきたのか?
これら疑問については、アイヌの歴史(概説)の年表で知ることができます。
残念ながら、アイヌの歴史に関しては、一部の研究者の努力に頼るのみで、多くの歴史資料や記録に基づく総合的な編纂がなされてはきませんでした。また、日本の歴史の中で、
アイヌ史の位置づけは、特別に曖昧なまま扱われています。将 来、自然人類学、考古学、歴史学、文化人類学さらには今まであまり研究が進んでいなかった法律学や政治学などの学問領域の観点からもアイヌ学を構築し、多面的な様相がさらに明らかになるよう、取り組んでいかなければなりません。
https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/past.html
アイヌ文化形成の主な母体となったといわれる擦文文化(北海道及び東北地方にわたって分布)が、12世紀半ばに変容し、土器文化の擦文文化は交易経済の発展 による鉄製品や漆器などの移入により、土器に代わる容器を用いた文化内容と儀礼様式を持つ文化が12世紀末頃までに生まれた。この文化は、アイヌ文化の構 成要素と重複し、この時期にはアイヌ文様も出現している。
北海道アイヌ協会より引用
上記からわかることは下の三点
アイヌの歴史はあいまい
12世紀に擦文文化が変容しアイヌ文化が生まれた
上記2点北海道アイヌ協会が認めている
さてこの中で気になることは
12世紀に擦文文化が変容しアイヌ文化が生まれた
とのことですが
擦文文化とは
https://www.akarenga-h.jp/hokkaido/jomon/j-05/
本州の文化の影響を受け、それまで使われていた縄文のついた土器と石器がみられなくなり、本州の土師器(はじき)に似た土器や鉄器が使われはじめます。
この文化を「擦文文化」とよび、7~12世紀ごろまでつづきました
と上記は書いています
一方ウィキペディアでは
https://ja.wikipedia.org/wiki/擦文時代
擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。これは、確認された遺跡の数の少なさと共に、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである
上記からわかることは
擦文文化とは本州の文化の影響を受けたものである
アイヌ文化への移行についてはよくわからない
もり仮に擦文文化がアイヌ文化に変化したということであれば
擦文文化やそれ以前の文化もアイヌ民族が担っていたということですね
そうなるとアイヌ民族は東北北部にもいたということになります
アイヌ民族の言葉は日本語と全く異なります
東北地方南部にいた日本人と隣り合って全く違う言語の民族が住んでいた
ということになります
現在みたいに国境管理できるわけでもないのにそんなことはありえるのでしょうか
いやいや蝦夷は東北北部にいただろうとツッコミがあるかと思いますが
蝦夷とは
大和朝廷に属しない東方、北方の人々と言う意味なので
一方アイヌは元から圧迫されたアイヌが南下して擦文文化を滅ぼした
という仮説もあります
https://www.youtube.com/watch?v=ll09yN7eAVk
この説であれば納得できます
とはいえ鎌倉時代北海道は日本領ではないのでアイヌが侵略したとはならないと思いますが
アイヌ民族が先住民族であるというのもまた仮説ではないでしょうか
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