地理歴史好きひさちゃんのブログ

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坂本龍馬がしたことって本当なの?

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坂本龍馬は脱藩藩士ながら明治維新を成し遂げたと信じられているが

本当なのでしょうか?

普通に考えれば脱藩藩士にそんなことが出来るはずないと思うのですが

坂本龍馬薩長同盟を締結の立役者であり、徳川慶喜大政奉還を決意させ、明治維新を成し遂げたとされています

 

最近それらの偉業は坂本龍馬が関わっていないのではという見方が広がっている

亀山社中と関わりは薄い

https://www.asahi.com/articles/ASL2P4SDXL2PULZU00K.html

 

史学会理事を務める、神田外語大学准教授の町田明広さん(幕末維新史)によると、亀山社中の「社中」は「グループ」という程度の意味薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団というのが実態。私設海軍や商社などとするのは事実誤認」坂本龍馬との関係も希薄とみる

 

薩長同盟成立も関わっていない

同盟成立に尽力したのは中岡慎太郎です

薩長連合の大仕事を着想し、工作し、推進し、実現させたのは一貫して中岡であり、坂本は途中から参加した協力者にすぎません。倒幕の統一戦線ともいうべき薩長連合の大芝居は、製作も脚本も演出も中岡であり、坂本は終幕に登場した一人の役者でした

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1143394931


★中岡がかけずり廻って成立した薩長同盟
「中岡は一銭の利もない仕事、ただ人の心を変えるために飛び回る。西郷にはうるさがられ、木戸には怒られ、諸隊の同志からは白い目で見られ、陰口をたたかれ、それでも中岡はひたむきに駆け回る。あいも変わらず損な役回りだけを引き受けている。だが彼は別にそれを『損』とは思っていないのだ。ただひたすら倒幕・連合のために献身するのである。この中岡の惨憺たる辛苦なしには薩長連合はなかったろう」(「中岡慎太郎坂本龍馬寺尾五郎著)


★半平太の描いた一藩勤王の夢を慎太郎が引き継いだ
武市半平太が刑死し、半ば崩壊状態にあった土佐勤王党の同志を手紙によって導き続け、最終的に郷士は勿論のこと、上士まで洗脳し土佐藩を討幕運動に参加させたことは意外と知られていない。龍馬は土佐を見限ったが、慎太郎は見捨てなかった。

禁門の変から薩長同盟へと駆け続けた
長州三田尻に走り、三条実美らに面会後、10月初旬にいったん帰国。武市ら勤王党の投獄を知り再度脱藩。倒幕直前には陸援隊を創設して、長州の尊攘派と死ぬまで行動をともにした。幕臣勝海舟の弟子になったこともあり、龍馬は薩長同盟の準備段階まで尊攘派とは一定の距離をおいていた。
禁門の変後に五卿を他藩へ移すという幕府側からの条件を実行するにあたって、慎太郎は五卿の安全保護を考えて、薩摩の意向を聞く必要があった。慎太郎は寺石貫夫の変名で元治元年(1864)12月に備前小倉(福岡県)にわたり、西郷と会談している。この時期から彼は薩長の和解について考え始めたらしい。翌慶応元年からはその実現にむけて東奔西走し、土方楠左衛門も同じ目標に向けて共に行動する。4月30日には潜伏先の但馬から帰国した桂小五郎に下関で面会し、薩長連合はいよいよ現実味を帯びてくるのです。
ほれぼれとする、土佐のいごっそう武士、男慎太郎ここにあり、ですね。

 

船中八策は作り話

これも坂本龍馬は関係なし

http://www.hodaka-kenich.com/Journalist/2011/01/22215021.php

芸州藩(広島藩)が大政奉還を真っ先に藩論とした。それは慶応2年である。翌年、芸州の辻将曹が薩摩・家老の小松帯刀に話を持ち込んだ。武力的な圧力を背景に、徳川家に大政奉還を迫る内容だった。薩摩は公武合体派だったが、幕府に嫌気がしており、これに乗った。

 小松がそれを後藤象二郎に話して聞かせると、「土佐藩もぜひ乗りたい」と加わってきたのだ。

 辻将曹が土佐藩も乗るならば、京都に兵力を連れてくるように、と条件をつけた。そのうえで、芸州、薩摩、土佐の3藩連盟で、15代将軍の徳川慶喜に建白書を出すという約束だった。

 後藤象二郎は、20日間で兵を連れて上京するといい、それを土佐に持ち帰ったのだ。しかし、山口容堂の派兵反対から、芸州・薩摩との約束が果たせず、窮地に陥った。
 後藤がスタンドプレーで、土佐一藩で大政奉還を建白したのだ。そこで、芸州藩もすぐさま同様の建白書を出してきた。
 芸州藩はある意味で、後藤に裏切られたのだ。
 
 土佐の文筆者がそれらを知りながら、故意に「船中八策」を捏造し、芸州藩からでなく、龍馬からの提案だとした可能性が高い。

 

なぜ坂本龍馬が偉人になったのか?

坂本龍馬が広く知られるようになったのは明治16年(1883年)に刊行された「汗血千里駒」や明治29年に刊行された「阪本竜馬」といった本がきっかけだった

 

明治維新の中心となったのが薩摩、長州、土佐、肥前であり土佐は主役ではなかった

冷遇された土佐は

明治維新は土佐の坂本龍馬がいたからできたんだ」という物語を捏造する

 

薩長の恨みから生まれた坂本龍馬物語

 

坂本龍馬が何もしてなかったとは思いませんが、坂本龍馬明治維新を成し遂げたというのは嘘であるということですね

 

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