果たして本当なのでしょうか?
勝海舟概要
1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。
https://ja.wikipedia.org/wiki/勝海舟
この人はかなり筆まめで明治維新後に「氷川清話」「海舟座談」といったものを残しています。同時代人に対する毒舌が満載なのはともかく自分の活躍を誇張しています。
https://www.amazon.co.jp/勝海舟の罠――氷川清話の呪縛、西郷会談の真実-水野-靖夫/dp/4901622986
歴史を歪めた勝証言の数々――
×「オレは咸臨丸に乗って、外国人の手は借らないでアメリカにいったのだ」
×「毎度いうことだが、かの大政奉還の計を立てたのも、オレの精神からだ」
×「オレが東京遷都を大久保に話したからすぐに決まったのだ」
×「ナアニ、維新の事は、オレと西郷とでやったのサ……」
「氷川清話のハイライトは江戸無血開城である。勝海舟はこれを自分が成し遂げたように語っているが、これが彼の最大のホラ話である」(本文より)
なので勝海舟の著書や証言はかなり割り引いて解釈しないとまずいです。
江戸無血開城は山岡鉄舟の業績
その1週間前に静岡で山岡鉄舟が西郷隆盛と交渉をしていました。
勝海舟はその静岡での合意内容を承認したにすぎません。
静岡での事前の交渉で西郷隆盛が提示した内容は
「江戸城、武器、軍艦の没収」
「徳川家臣の処罰」
「城兵の撤兵」
「徳川慶喜の備前藩あずかり」(死刑)の条件を山岡鉄舟は拒否。西郷隆盛はこれは朝命であると凄んだ。これに対し山岡鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。
西郷は江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなりました。
山岡鉄舟は勝海舟とは違いこの偉業を誇らしげに語ることをしませんでした。
まとめ
勝海舟の話はホラが多いので気を付けましょう
交渉相手の西郷隆盛の業績でもあるといいたいところですが
そもそも戊辰戦争は西郷隆盛が江戸でテロ行為をして徳川を挑発したことが
発端なのであえて書きません。
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