地理歴史好きひさちゃんのブログ

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#討ち入りゾロ で思い出したやばいこと

 

卑怯者はどっちだ!

 

1941年12月日本は #真珠湾 を【卑怯な騙し討ち】をしたことになっている。だが日米が交渉中だった7月、ルーズヴェルトは日本への「宣戦布告なき先制爆撃」計画にサイン。騙し撃ちを狙っていたのは米国民主党政権

 

日比谷焼き討ち事件が破滅のきっかけと司馬遼太郎が書いてましたね

 

1945年8月15日06:56 佐々木大尉率いる「国民神風隊」が、平沼枢密院議長邸を襲撃し焼き討ちを行う。また、木戸内大臣邸への襲撃も実施した #8月15日 #芙蓉録

https://twitter.com/fuyo1945/status/1426663923814526979?s=21

 

はい。政府が正式に「壺と自民問題」を認めました。今日以降「関係があって何が悪い」派は討ち死にです。「政治と宗教」問題も少なくとも統一教会に限っては完全にアウトです。もう逃げ道はありません。

 


統一教会と「関係絶つのが基本」 自民党・茂木幹事長が言及

https://twitter.com/nosuke0607/status/1556585509035868160?s=21&t=M1DlvTCmr-mmKrmPP0ExsA

 

素行の嫡男・政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に政実はじめ家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家と弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる(休んで粥ばかり食べていたとするのは芝居などの創作)。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている

 


平戸山鹿氏および松浦家は、山鹿素行の『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とある[31]を論拠として「大石の輩[32]は公儀の免許も得ず、徒党を組み火事と偽り闇討ちにて押入るのであるから、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙である」と元禄赤穂事件を批判している。山鹿光世もこれに倣う

 


芝居の山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」(越後流の働事太鼓)[35]が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である

 


石岡久夫は菅谷政利が山鹿流を学んだとしているが[37]、赤穂市史編纂室は疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」としている[38]。同様に同市編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に大石良雄や大石良重が山鹿素行から山鹿流を学んだとする説をも記してない[39](wikipediaにおける両記事もこれに倣っている)。 中央義士会も「史学的には山鹿素行と大石は無関係」としている[40]。

素行の著作や日記において、赤穂義士の名は一人も書かれていない。また反対に、『堀部武庸日記』『赤城盟伝』など義士の著作や書簡、及び『堀内伝右衛門覚書』『波賀清太夫覚書』ら義士から聞き取りした文献に、山鹿素行の記述は皆無である

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C

 

江戸時代の前は忠義という観念はあまりなかった。元禄年間にはいってさえ赤穂浪士の仇討ちが、堀部安兵衛によってはじめて君主の位置を父と同様に置き、仇討ちの対象にできるという理論構成をしたことでもわかる。

戦国の気風を多く残す江戸時代初期はまだ下剋上の論理が横行していて 「部下の生活を保障できない主人は主人ではない」という現実重視の考え方が支配的だった。

 

詳細は「英国公使館焼き討ち事件」を参照

 


品川御殿山は景勝の地で江戸市民の行楽地であったが、各国公使はここに公使館を建設することを要求した。国内からは猛反対が起きたが、結局幕府は列国の要求を呑んだ。新英国公使館は文久2年8月から品川御殿山に建設が開始され、12月にはほぼ完成していた。長州藩高杉晋作は、優柔不断な幕府に攘夷を決行せざるをえないようにするため、イギリス公使館の焼打ちを計画した。一行は、文久2年12月12日の深夜、厳重な警戒を突破して建築中のイギリス公使館に潜入、井上聞多(後の井上馨)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)らが焼玉を使ってこれに放火した。幕府は犯人が長州藩関係者と目星をつけたにもかかわらず、何ら処罰的な行動を起こそうとはしなかった。

 

神戸事件は大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件である。結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示した。また、朝廷がこのときまで唱えていた「攘夷」(外国を討ち払う)政策を「開国和親」へと一気に方針転換させた事件でもあった。ただし、この「開国和親」表明は外交団に対するものであり、新政府内にも未だ攘夷を支持する者もいることから、国内に対してはその事実を明確にはしなかった。国内に対する正式な表明は翌年5月28日(1869年7月7日)に行われた新政府の上局会議における決定によるものである。

 


この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされたことは日本史の流れにおいても重大な出来事であった

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

日本軍への残虐な戦犯 - ナショナルジオグラフィックチャンネル製作のドキュメンタリー作品。トム・ハリソン英国陸軍少佐(と部下達)、及びボルネオ島首狩り族が共同生活作業で、だまし討ちされ殺害された日本兵達の首を切断し、大量の干し首加工を行い楽しんだ行為を解説。

ザ・パシフィック - 原作の実録手記ペリリュー・沖縄戦記に基づく遺体損壊行為が幾度も登場する

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%85%B5%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E6%88%A6%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E9%81%BA%E4%BD%93%E3%81%AE%E5%88%87%E6%96%AD

 

「仇討ちは、天下の大道にて目のある場(衆人環視)で討ち果たすが手柄と云うべし。放し(自由に行動できること)の敵が家中に居るを、人知れず踏み込むは悪しき下策なり。是れ夜盗と大差なし」(『山鹿語類』、巻二十九)

 

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