地理歴史好きひさちゃんのブログ

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#どうする家康 を楽しむ為の徳川小ネタ

 

いろいろあつめてみた

 

みんな秀吉に騙されている」明智光秀の子孫が激白。欧米やイエズス会支配の日本の歴史

織田信長豊臣秀吉徳川家康黒田官兵衛

動画

https://twitter.com/mimasakakanket1/status/506410523529719809?s=46&t=r-xZGd6TOzZKP7r8sCLhTg

 

友人に勧められ、徳川家康も愛読していたという『貞観政要』を読んでいたのだけど、「天下を治めるには臣下の諌言に耳を傾けることが重要」と書かれていて、ふむふむと読んでいたのだけど、Twitter見たら「強行採決は自殺行為」と警鐘を鳴らした泉田議員が光の速さで内閣委員から外されてて鼻水出た

https://twitter.com/h_ototake/status/1260497709632495616?s=21

 

井伊直政関ヶ原の戦いで頑張ったから家康主導で戦後処理できましたからねえ。直政がいなければ諸大名に「徳川なんもしてないくせに」と思われスムーズに江戸幕府がスタート出来なかったでしょう

 

9月8日に届いた家康からの手紙

信州信濃上田城と第二次上田合戦

慶長5年(1600)9月、関ヶ原の合戦の前哨戦となる第二次上田合戦では、関ヶ原に向かう徳川秀忠率いる3万数千の軍勢を、真田昌幸が3千ほどの兵力で撃退。秀忠軍が決戦に遅れる原因となりました。(諸説あり)

と云われていますがこれは後世の創り話で、史実では秀忠が当初家康から受けた命令は信濃国の平定でした。ところが9月8日(9日説もあり) 家康より上洛を命ずる書状が届き、上田城の抑えの軍勢を配置すると、3日後に西へと転進しました。

上田から関ヶ原までの距離は約270㎞。中山道(東山道)の狭く険しい峠道を、3万もの軍勢を進軍させるには10日間以上要します。書状が届いた時点で既に関ヶ原に15日に到着することは無理でした。

関ヶ原の合戦後、昌幸は降伏し城は開城となりその後徹底的に破壊されました。

現在の上田城は、小諸藩から転封となった仙石忠政により、寛永3年~5年(1626~28) に築造されたものです。

参考文献

平山優『真田信繁角川選書

黒田基樹真田信繁戎光祥出版

丸島和洋『図説真田一族』戎光祥出版 ほか

 

参勤交代の目的は「大名の経済力を削いで、反抗する力をなくすため」というが、寛永令では「参勤交代の際、たくさんの人数を連れてくるな。もっと行列を簡素にしろ」と命じているので、この認識は正しくない。

参勤交代は、将軍と大名の主従関係を確認する儀式なのだ。

 


太平の世における、御恩と奉公の関係性

将軍は諸大名に対し、領地の安堵やさまざまな特権などの御恩を与えている。だから家来である大名は、将軍のために命を捨てて戦うのが奉公だった。とはいえ、江戸時代には戦争がない。だから武力で奉公するのではなく、江戸の将軍のもとに参上して挨拶し、さまざまな仕事を勤める。それがこの時代の奉公になったのだ。

なお、参勤交代によって常時半数の大名が江戸にいることになり、いざ戦争や反乱がおこれば、ただちに彼らに軍役を課して動員することも可能になった。また、参勤交代は幕府が江戸にいる大名の監視をするのにも役立ったろうし、交通の発達や、諸大名間の文化交流も促された。

 


家光は、弟の徳川忠長を上野国高崎に逼塞

ひっそく

させ、領地の甲斐と遠江を公収した。すでに秀忠の生前から乱行が目立ち甲斐で謹慎させられていたが、断固、処分したのである。それからまもなく忠長は切腹して果てた。

こうした家光の果断なやり方に諸大名は震えあがったが、まさにそれは父・秀忠のやり方をまねたのである。秀忠は、自分が権力を握ると、安芸の福島正則や弟の松平忠輝を改易している。

家光はまた、父の秀忠が丁重にあつかってきた御三家(家康の息子によって創設された尾張紀伊・水戸の三家)を完全に家臣あつかいにした。こうした強圧的姿勢によって、諸大名は新将軍を畏怖するようになった。

https://president.jp/articles/-/56351?page=3

 

井伊直政さんの彦根城、江戸時代末期には井伊直弼で、有名になった、彦根城ですネ。関ヶ原の合戦の後、家康さんの東軍は大勝利、立役者は徳川四天王のひとり、最も若い、井伊直政さんでした。家康さんは彼の事を満千代と、幼名で呼んでいた事から、彼への期待度は大きかったのでしょうネ、関ヶ原の恩賞の配分も満千代さんが行なった見たいです、豊臣御行の大名は、筆頭に、福島正則さん、加藤清正さん、黒田長政さん、山之内一豊さん、その他、もろもろですが、やはり、広島の福島正則さん、熊本の加藤清正さん、高知、伊予の山之内さんですネ、そこで、彦根城の建築の時に、火❤️‍🔥で焼却した、佐和山城の材木、まだ使えた、ふすまなどを使い、彦根城を増築したと、諸文庫には、書かれていますね。一方の佐和山城、東軍が攻め落とした後、さぞかず良いものがと思い中に入ったら、ふすまはあるが質素な物、土間は土、いかにも質素な、三成さんのお城だと!今は、ハイキングコースになり、一応、天守閣後が残っている、小山であります。

佐和山城を唄った話)

三成にすぎた物が二つあり、島佐近と佐和山の城

 

浅野長政
小田原征伐において秀吉が沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次が舟橋を架けた。しかし秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り、舟橋の安全性を証明したという(大道寺友山の『異本落穂集』より)。
同じく小田原征伐の際、秀吉は、家康の居城の駿府城に宿泊する予定であった。しかし同じく三成が「駿河大納言殿(家康)は北条左京(北条氏直)の岳父であり、内応している疑いがございます」と述べた。すると長吉は「大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ」と秀吉に直言した。秀吉は長吉の言葉を容れて駿府城に入城し、家康から手厚いもてなしを受けたという(『異本落穂集』より)。
秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。
石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF

 

まとめ

他にもいろいろありますがとりあえずこれくらいで

 

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