地理歴史好きひさちゃんのブログ

生まれた頃から地理が好き 主に地理、道路、災害情報、歴史について発信しています

話し合いで思い出したやばいこと

 

やばい

 



 

話し合いの苦手な自民政権、自民党、なんで政治家になったのかね金儲けの為になったんだね。

9日の党首討論 持ち時間わずか5分に中小政党「まともな議論できぬ」 | 毎日新聞

https://twitter.com/msugiurataisuke/status/1401480312283033603?s=21

 

2022年4月

アゾフスタルの人道回廊の話し合い

 


🇺🇦出して

🇷🇺どうぞ、攻撃全て停止


🇺🇦瓦礫が邪魔

🇷🇺掃除手伝う

 


🇺🇦民間人と負傷者も出したい

🇷🇺どうぞ、でも🪖負傷者はうちで治療し、捕虜にします

 


🇺🇦嫌です、負傷者も引き渡さないと、民間人出さない

これがもう何日も続いてる

https://twitter.com/sofimari21/status/1519533601548767237?s=21&t=7Q34PcX4gLLJVMDrIWLVtw

 

この会談の後、交渉は一旦保留され改めて東征大総督府と海舟らの話し合いが行われたが、江戸から上洛した西郷から条件を受け取った京都は大総督府と西郷が旧幕府に妥協し過ぎと受け取り、閏4月11日に徳川家処分の決定案を持って三条実美が江戸へ下向、24日に到着して29日に田安亀之助(後の徳川家達)の相続が発表された。詳細は旧幕府側の暴発を恐れ当面伏せられたが、5月15日に大村益次郎が新政府軍を指揮して不満分子である彰義隊を壊滅(上野戦争)させてからは正式発表できるようになり、24日に徳川家の領土が400万石から駿府藩70万石に決定された。海舟は西郷が出て行った後は参謀海江田信義と交渉、一時は石高半減も認めない強気の姿勢を取ったが、彰義隊壊滅でそれも難しくなり、海江田が罷免されたこともあり、大減封である処分案正式発表を受け入れざるを得なかった

戊辰戦争上野戦争後も続くが、海舟は榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。

 

1630年と1637年のフィリピン侵略計画[編集]

1630年、松倉重政ルソン島侵略を幕府に申し出ていた。将軍徳川家光はマニラへの日本軍の派遣を確約することは控えたが、重政にその可能性を調査し、軍備を整えることを許した。1630年12月14日、重政は長崎奉行・竹中重義の協力を得て、吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送り、スペインの守備を探らせた[3]。彼らは商人に変装し、貿易の発展についての話し合いを口実としてルソン島渡航した。それぞれ10人の足軽を従えていたが、嵐の中の帰路、木村の部下は10名とも死亡した[4]。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた[5][6]。重政は軍備として3,000の弓と火縄銃を集めたという[7]。この作戦は侵略指揮官である松倉重政の突然の死によって頓挫したが[8]、日本によるフィリピン侵略は1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた

 

2020年3月

韓国では毎日2万人の検査と共に、コロナ対策の会議をオープンにし、専門家と政治家がよく話し合い、それをこまめに国民に報告して不安を解消することで、市民の自発的協力を喚起し、政府による上からの力ではなく、本当の意味での国民一丸となった防疫で着実に成果を上げているとの記事です。

https://twitter.com/tomomachi/status/1238246571235565568?s=21

 

 

中印両軍がにらみ合う中、インド政府は中印国境沿いのインド実効支配地域のインフラ設備の整備を完了するために、同国国境道路公団(英語版)の下で同地域に新たに約1万2000人の労働者を派遣することを決定した専門家の間では、ラダックのダルブク・シヨク・DBO道路(英語版)の整備計画に反対する中国の対抗措置によって起きたものと考えられている[35]。中国もこれら係争中の国境地帯でもインフラを広範囲に開発しており、現在も開発を継続している[36][37]。2019年8月にインド政府がジャンムー・カシミール州の特別な地位を取り消したことも、中国を悩ませている[38]しかし、中印両国はともに状況を解決するための十分な二国間メカニズムが既に存在している、話し合いの場があると主張している

 

11月、上海の重光堂において、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した参謀本部の今井武夫・影佐禎昭との間で話し合いが重ねられた(重光堂会談)[9]。11月20日、両者は「東亜新秩序」の受け入れや中国側による満洲国の承認がなされれば日本軍が2年以内に撤兵することなどを内容とする「日華協議記録」に署名調印した[6][8][9]。そして、将来的に日華防共協定がむすばれるならば、日本は治外法権を撤廃し、租界返還も考慮するとされたのである

 

ロッシュは、同じく2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。5箇条の内容は、『堺市史第三巻 本編第三』777頁によると、以下の通りであった

 


下手人たる土佐藩隊長以下隊員を、暴行の場所に於いて、日仏両国の検使立会の上、斬刑に処すること

賠償として、土佐藩主(山内豊範)は15万ドルを支払うこと

外国事務に対応可能な親王フランス軍艦に出向いて、謝罪の意思を表すこと

土佐藩主も自らフランス側に出向いて謝罪すること

土佐藩士が兵器を携えて開港場に出入りすることを厳禁すること

当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。

 

そこで東京組の会津藩家老たちは話し合いました。

会津の猪苗代サいだら、薩長どもから反乱を起こすつもりかと、疑われちまうべした」

 


「んだんだんだ!」

 


これがまず、第一の論点でした。

 


明治政府は初期の頃、不平士族の反乱に悩まされました。

 


維新サイドの土地でもそんな状態ですから、会津藩士を地元に置き続けるなんて危険視されて当然です。

 

 

 

 


もうひとつ。

 


幕末にロシアやフランスまで見た山川浩には、こんな考えもあったことでしょう。

 


会津には海がねえ。海がありさえすれば、都合のいいこともたくさんあるべや!」

 

まとめ

めちゃくちゃ高潔で倫理的な国に住みたいわけじゃない。程よく常識ある理性的な大人が話し合いで運営する国に住みたい。それほど贅沢な望みじゃないはずなのに

大昔から話し合いで紛争解決しているというのにそれをする気がない国賊自民

さっさと解党しろ!

 

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