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フランス 暴動で思い出したやばいこと

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やばい

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2023/07/01

数千人の略奪者がフランスの主要都市を襲い、地元警察は"野蛮な害虫の大群"と戦争状態にあると宣言した。


17歳のナヘル・メルズークさんが火曜日に交通違反の取り締まり中にフランス警察によって処刑された銃殺事件を受けて暴動が激化する中、英国外務省はフランスへの渡航に警告を発した。

フランスの広い地域で火災、暴力、破壊が行われている中、ナヘルさんの葬儀が今日執り行われる。

dailymail.co.uk/news/article-1…

https://twitter.com/piyococcochan2/status/1675022155367727104?s=46&t=daZFVKGDH5pojLX1iOXV5Q

 

 

2023/07

🇫🇷フランスの暴動

爆発物に自動小銃に散弾銃にどうなってんのこれhttps://twitter.com/tamama0306/status/1675128942297223168?s=46&t=daZFVKGDH5pojLX1iOXV5Q

 

2023/03

フランスは年金受給年齢の引き上げを決めて、フランス国民大暴動中です💥

フランスの場合、通貨がユーロだから自国通貨ではないので、国債は本当に「国の借金」。財政赤字は子や孫の借金になるから、しょーがないとは思いますが、年金もらえないのは深刻ですよね😅https://twitter.com/amiisinyourmind/status/1639762301187428352?s=46&t=daZFVKGDH5pojLX1iOXV5Q

 

ド・ゴールブラザヴィル会議

インドシナ半島は1941年のヴィシー政権成立以降、フランス領インドシナ総督との間で協定を結んだ日本軍が進駐し(仏印進駐)、軍事的には日本軍が占拠し、内政はフランス側が続ける状態にあった。ヴィシー・フランスに対抗していたシャルル・ド・ゴールの自由フランスは、ブラザヴィル会議(フランス語版、英語版)で植民地の協力と引き替えに戦後の自治拡大を約束した。しかし、フランスの世論は基本的に植民地保持派が多数を占めており、独立を容認する考えはなかった。

 


1944年6月にアルジェ(アルジェリア)で成立した自由フランス主導のフランス共和国臨時政府が8月のパリ解放で帰国すると、日本軍は1945年3月に明号作戦を行い、フランス領インドシナ政府を解体、フランスの植民地支配が終結したと宣言した(仏印処理)

 

 

中国側は日本軍による山海関占拠の合法性を認めなかった[24]が、ロンドン・タイムズは「1901年に調印された北京議定書に基いて占拠している日本軍に対して中国軍が攻撃的態度を取ったことは中国軍の責任であり、日本側が侵略されたとして防御するのは当然の権利」と説明している

フランスでは、フランス社会党党首レオン・ブルムが同党の機関誌において反日的な論説を行い、日本との即時断交を主張したが、4日の夕刊各紙の報道はいずれも日本を弁護した。『タン』紙は「日本軍の北平への進出説があるが軽々しく信じられぬ」とし、『リベルテ』紙は「山海関事件は中国側が悪いに相違ない、国際連盟は事務局の力でごまかすだろう」と報じた

 

フランスは、この食料戦争を見越して自給率を高めるために徹底して農家を保護、改革を繰り返し自給率100%維持し続けている。すでに40年前からこの政策に取り組んできた同国はさすがとしか言いようがない。一方日本は日々の食い扶持を他国に委ねたほうが安いからと自給率を下げ続け旧態依然の政策ままに農家の生活を追い詰めあらゆる種子や精子を海外に流出させた。

 

真珠湾攻撃から2日後、12月10日のマレー沖海戦では、航行中のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が、日本軍機による航空攻撃のみで撃沈された。これらの海戦結果により、それまで海戦において補助的な位置付けにあった航空機が主役として注目されると同時に、いかなる艦船でも航空機によって撃沈されうることが浮き彫りとなった。

こうして大艦巨砲主義時代は終焉(しゅうえん)を迎え、時代は航空主兵時代へと移るのである。それでも戦艦の建造は少数ながら続けられ、日本海軍が大和型戦艦3番艦を空母信濃に改造したのに対し、アメリカ海軍がアイオワ級戦艦のイリノイ、ケンタッキーの建造を中止したのは1945年8月と1950年1月、イギリス海軍は1946年8月に戦艦ヴァンガードを、フランス海軍は1949年にリシュリュー級戦艦のジャン・バールを完成させた。

 

 

第二次世界大戦後、日本の降伏を受けてインドシナ半島には政治的空白が生じていた。英印軍とフランス軍によるタスクフォースおよび現地に残留していた旧日本陸軍南方軍所属将兵は、インドシナ半島の支配を巡って共産主義勢力ベトミンと対峙した。

およそ45年間も続くことになるインドシナ戦争は、20世紀末を通じて世界的な注目を集めた。主にフランスによって戦われた1945年から1954年までの戦争、アメリカ合衆国の介入(ベトナム戦争)を経て1973年まで行われた戦争、1978年に行われたベトナムカンボジア侵攻(カンボジア・ベトナム戦争)に端を発する戦争はそれぞれ第一次、第二次、第三次インドシナ戦争と呼ばれる。実際にはこれらに先立つ1945年から1946年にかけて、イギリスのサイゴン進駐に端を発する短期間ながら重要な紛争が発生していた。

 

1946年12月19日から、フランス軍はトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイホー・チ・ミン官邸やその他重要施設を襲撃した。その後2ヶ月間に多くの戦略拠点を占領した。ベトミンが北部国境地帯の要点を押さえ中越間の連絡路を確保するとフランス軍は国境沿いの要衝ランソンを占領し牽制した。1947年2月にフランスの一連の平定作戦は完了し、中部ではダナン、フエ、プレイクを占領した。ヴォー・グエン・ザップを総司令官とするベトミン軍は内陸の農村地帯に退避しゲリラ戦に移行した。

 

1946年11月20日の朝、フランスのパトロール艇がハイフォンに禁制品のガソリンを持ち込もうとしたジャンクを拿捕した[5]。報復としてベトミンは停泊するフランス軍艦を放火し、23人のフランス兵が死亡した[6]。その後も戦闘は続き、葬式に参加していた部隊がベトミンに襲撃されて6人の兵士が死亡するなど被害が出た[6]。インドシナ総督は事態を収拾するため、11月22日にはハイフォンにおけるベトナムの主権を認めることで合意した

 

まとめ

いろいろあるけどフランスの移民暴動は植民地支配のツケのような気がする

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