地理歴史好きひさちゃんのブログ

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会津戦争の真実 会津領民は官軍を大歓迎した

政治家が薩長を賛美すると、会津の人たちが批判することがありますね。

それを聞いたりすると

「また歴史の改ざんか・・」とがっかりしてしまいます

 

 

会津戦争の概要

慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。

Wikipediaより

 

会津領民は官軍を大歓迎

会津藩は領民に重税を課したり、武士が領民から略奪を働いたり

領民からの借金を踏み倒したり

会津領民は貧困と圧制に苦しめられていました。

 

そこへ官軍がやってきたので領民は「官軍様」と大歓迎

ちなみに会津軍は「会賊」と呼んでいました。

積極的に官軍に会津軍の配置を教えたり、物資を供給したり、道案内をしたりしました。

 

おかげで官軍は破竹の進撃で会津軍は崩壊

(そもそも財政難で戦争どころではなかったのですが)

 

白虎隊は城下の煙を見て城が堕ちたと勘違いして自刃しましたが

いかに情報が入ってこず、孤立していたかがよくわかります。

領民との関係が良好であったならこのようなことは起きなかったでしょう

 

白虎隊の死体から領民が金品を盗んでいたそうですが

会津藩士と領民の関係をよく表していますね

 

戦後処理

江戸に送られることになった松平容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで会津藩の重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにも殆ど現れなかった

会津藩の領土は明治政府の直轄地として占領され、会津若松城下には政府機関である「明治政府民政局」が設置された。その後、各地で打ち壊しを行うヤーヤー一揆の農民たちに対して、明治政府は積極的に鎮圧はせず会津藩の旧村役人に交渉させ、一揆勢力の要求の多くを実現させた。

領土を失った会津藩の武士らは、翌年の明治3年(1870年)謹慎を解かれて転封先として「猪苗代町福島県耶麻郡)」と「斗南(現在の青森県むつ市)」のどちらかを明治政府により提示され、最終的に斗南を選択し移住しましたが

猪苗代町を選ばなかったのは領民からの復讐を恐れていたのだと思われます。

ゆえに遠い青森県を選んだということでしょう

 

まとめ

 

会津領民は会津藩士が大嫌いで官軍様と大歓迎したにもかかわらず

子孫たちは官軍が大嫌いとは・・・

どうしてこうなってしまったのか・・・

 

会津藩士の子孫ならまだ話はわかるのですが

青森県むつ市の人が官軍嫌いとはあまり聞かないし

 

軍事的には軍隊と領民が不仲だと情報が敵に流れてしまい戦闘に不利になるという教訓ですね。

 

歴史は常に意図的にせよ無意識にせよ改ざんされてしまうのですね

 

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