占守島(しゅむしゅ)といっても普通の人はご存じないでしょうね。
ここで日本軍はソ連軍を足止めしました。
占守島は上記の地図の通り千島列島最北端に位置します。
ここは対ソ連最前線でもありますが同時に対米国の最前線でもありました。
日本国内で最も米国に近いのがこの占守島です。
実際ここに駐屯していた日本軍は米軍の侵攻を想定していました。
そこへ1945年8月18日未明にソ連軍が占守島へ奇襲をしかけました。
ソ連軍は一旦占守島に上陸し南下しますが15日に武装解除していた日本軍が急ぎ再武装し反撃します。
この反撃で有名なのが戦車第11連隊です。「士魂部隊」と呼ばれています。
(11→十一→士)
余談ですがこの士魂部隊は自衛隊にも受け継がれています。
第11戦車隊は、北海道恵庭市の北恵庭駐屯地に駐屯する、陸上自衛隊第11旅団隷下の機甲科部隊である。同駐屯地には第72戦車連隊も駐屯している。
部隊マークは、”士魂”。 1970年より「士魂戦車大隊」と称している。これは旧陸軍の戦車第11連隊(愛称:士魂部隊、十一を「士」と読ませたことによる)に由来する。戦車第11連隊は満州で編成され、大戦末期には本土防衛のため千島列島に移動していたが、ポツダム宣言受諾後の1945年8月18日より起こった占守島の戦いで占守島に上陸したソ連労農赤軍と戦った。戦車11連隊は多くの犠牲を出したが奮戦し、ソ連側に日本側以上の損害を出させた。この戦いを顕彰し伝統を継承するために、第11戦車隊は「士魂」の愛称を受け継いでいる
士魂部隊などの活躍もあり、ソ連軍は後退し、上陸地点まで追い詰められます。
しかし札幌の第五方面軍の停戦命令により、日本軍は戦闘に勝っていたがソ連に降伏します。
ソ連軍は大きな損害を受けながら、日本軍の武装解除にたどりついた。『戦史叢書』によれば、『イズヴェスチヤ』紙は「占守島の戦いは、満洲、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。八月十九日はソ連人民の悲しみの日である」と述べている。
両軍の損害は、ソ連側の数値によれば、日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名である。日本軍は武装解除後分散されたため、死傷者の正確な数をつかめなかった。ただし、日本軍人による推定値として日本軍の死傷者は600名程度、ソ連軍の死傷者は3000名程度との数値もある
占守島の戦いの結果
ソ連軍は当初予定の北海道侵攻計画を断念しました。
その腹いせに北海道侵攻のための部隊で北方領土を不法占領しました。
この戦いでの勝利がなければ北海道の北半分もソ連に取られていたでしょう。
この戦いこそ歴史教科書に載せるべきだと思います。
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