いろいろある
五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団(主に石田三成)と次期政権を狙う家康との対立に発展し関ヶ原の戦い慶長5年(1600年)に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、慶長8年(1603年)に朝廷より征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を創設した。さらに家康は大坂の陣慶長19-20年(1614-1615年)で豊臣氏を滅亡させることで徳川氏による国内覇権を確立、江戸時代が始まった。
世界ではいろいろなことが「3大○○」という括りで紹介されていますが、「世界三大古戦場」には、関ヶ原の戦いの「関ヶ原」がランクインしています。あれだけ狭い場所に約17万の軍勢が集まったのは世界史的に稀有な出来事であり、海外では軍関係者を中心に関ヶ原の戦いを学んでいる人が少なくないのです。「関ヶ原の戦いは特異な戦いだと思うけれど、君はどう考えているの?」。海外の人からこんな質問をされたとしたら、あなたはどう答えるでしょうか。「答えられないのは日本人として恥ずかしい」とまでは言いませんが、歴史小説をある程度読んでいれば、それなりに自説を主張できるはずです。
頼氏は関ヶ原の戦い(1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから、1602年(慶長7年)に1000石の加増を受けた。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督や左馬頭を称したが、これは幕府から受けた武家官位ではなく自称であった。にもかかわらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。
世間では戦に自信の無い三成が秀吉に憧れて備中高松城攻撃の再現をしようと無理やり水攻めを~と言われてますが
実際の手紙等見ると秀吉の方から「(お前戦苦手みたいだから)なんか忍城の辺り湿地らしいから水攻めやれ、水攻めが1番。いいな水攻めだぞ!」みたいに押し付けたのが真実みたいですね。
特に江戸時代以降の三成無能説に尾ひれ背ひれが付く中で(関ヶ原前半の夜襲拒否も)失敗は全て三成に押付けられる傾向にあるのは残念
天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。
『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。
上述のように宗教弾圧以外の側面もあることからかは不明であるが、現在に至るまで反乱軍に参戦したキリシタンは殉教者と認定されないままである
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの結果、甲斐国は徳川氏直轄・譜代支配となった。この結果、甲州沿いが徳川領、もしくは親藩となり、街道が整備できる環境が整った。
甲州街道「江戸 - 甲府」の開設は慶長7年(1602年)[2]で、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。
近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという(その為、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねられている)また、短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲・足軽兵力が将軍と共に徳川家親藩の甲府城までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。
鎌倉時代の東海道は、平安時代の東海道とは大きくルートが異なるところが2箇所ある。 1つは近畿・中京を連絡する鈴鹿峠越えで、もう1つは東海・関東を連絡する足柄峠越えである[11]。 伊吹・鈴鹿山系を越える道筋は、古代東海道では南回りの鈴鹿峠越えであったが、中世になって関ヶ原越えのルートに変更されていて、『海道記』と『東関紀行』『十六夜日記』のなかからもその違いを読み解くことができる[12]。また、足柄越えは『十六夜日記』のなかで「足柄は道遠しとて箱根路にかかる」とあるように、それまで駅路の整備が難しかった箱根路が開発され、近道となった箱根峠越えに変更された
慶長4年(1599年)から慶長5年(1600年)6月まで伏見城を守備した[5]。同年6月8日、伏見を発って関東に向かい[5]、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。上杉景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた[4]。
同年9月7日、徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には結城秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、家康は秀康の武将としての器量を評価しており、父子がそれぞれの立場をわきまえて生涯認めあっていたことは確かである
井伊直政が関ヶ原の戦いで頑張ったから家康主導で戦後処理できました。直政がいなければ諸大名に「徳川なんもしてないくせに」と思われスムーズに江戸幕府がスタート出来なかったでしょう
関連記事
chirirekishizukihisachan.hatenablog.com
chirirekishizukihisachan.hatenablog.com
chirirekishizukihisachan.hatenablog.com
最後まで読んでいただきありがとうございます