地理歴史好きひさちゃんのブログ

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函館記念で思い出した函館の歴史などいろいろ

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やばい

 

函館。陸繋島の函館山と北海道をつなぐ砂州の上に函館の街。一見平らな砂州だが、五稜郭の南の松陰町の辺りは地形分類上は「台地」となっている。航空写真や通常の地図ではそれらしく見えないが、地理院地図の色別標高図を工夫すると台地の微高地が見えてくる。

https://twitter.com/harita_arayshi/status/1382206772622942209?s=21

 

1900(明治33)年の道南。内田老鶴圃の日本地理附図から。函館ー小樽の鉄道は未成で大雑把な記載。道南と道央の交通がまだ未熟だ。札幌と繋ぐ室蘭ルートと小樽ルート、現在に至るまでの葛藤がすでに見える。

https://twitter.com/harita_arayshi/status/1379949534973849600?s=21

 

昭和4(1929)年の冨山房の新日本地図から北海道の人口密度のページを見ると、空知支庁のみ50人/㎢で石狩支庁よりも密なのは、やはり炭鉱のためか。釧路が5万人未満(○)なのに夕張は5万人以上(◉)。

昭和5年国勢調査の北海道の都市人口順位も貼る。函館市が首位だ。野付牛町は現在の北見市

https://twitter.com/harita_arayshi/status/1366767339643891712?s=21

 

北海道亀田市が載っている昭和48(1973)年の日地の道路地図。

亀田市は亀田町が1971(昭和46)年11月1日に単独市制施行して誕生。わずか2年1月後の1973(昭和48)年12月1日、函館市編入合併して消滅した。他の市との合併で消滅した市としては2番目に短命と思われる。

https://twitter.com/harita_arayshi/status/1348157887353290752?s=21

 

1920年(大正9)の国勢調査では、北海道最大の都市は函館で145千人第2位は小樽で108千人、札幌はこれに次ぐ第3位で103千人という順位でした。1925年の調査で札幌の人口が小樽を抜き2位になりますが、戦前はこれら3都市は人口もほぼ拮抗していていました。 戦前の札幌は純然たる行政都市という性格が強く、経済・産業面では函館や小樽の後塵を拝していたのです。 函館が栄えた理由は、航空機時代以前は「北海道の玄関口」として北海道と本州の間を行き来する人や物はいったん函館に集まるようになっていたからで、割と判りやすいと思います。

 

2016年7月

不正選挙のボロが、あちらこちらで紛失騒動。

投票したはずが得票ゼロ 函館市選管開票ミスか 訂正しない方針

西宮市は6票多いって、明らかにおかしい

https://twitter.com/shonankb/status/753420220799127553

 

【東鉄二十八日十四時発表】

休航中の青森函館間連絡船は1945年八月二十八日より復旧就航することとなった。船舶および輸送力僅少のため最小限度の緊急要務者に限り三等乗船券を発売する。なほ乗船券発売箇所は東京都区内は上野旅行統制官事務所、横浜市内は横浜旅行統制官事務所でそれぞれ取扱ふ

#芙蓉録

https://twitter.com/fuyo1945/status/1299210601747476480?s=21

 

明治期に初版・修正の100万分1東亜輿地図で横浜港からの定期船の行き先を見ると、「荻ノ濱、函館、ヴィクトリア、桑港、ホノルル港、シドニー」とある。桑港はサンフランシスコ、ヴィクトリアはカナダだけど、荻ノ濱って? 震災津波で大きな被害をうけた宮城県石巻市の荻浜か・・・(続)

https://twitter.com/harita_arayshi/status/1451055372135845888?s=21

 

函館市長がワクチン5回接種済み、常時マスク着用でコロナ陽性(笑)

#コロナ茶番

https://twitter.com/odecorokutabare/status/1591924708953710592?s=46&t=Au_CDIl3FwtMlj03-tcfOg

 

6月10日箱館奉行村垣範正が領事ゴシケヴィチに抗議し露艦の退去を要求。以後も再三抗議・要求した。これが効いている。

リハチョフ提督が箱館領事ゴシケヴィチから幕府の抗議と江戸における欧米外交団の不評反発を伝えられ、当初の見込み通りにゆかないと撤退を決意したのは6月下旬。

英公使オールコックらと老中酒井忠毗が英艦派遣を相談する以前に露艦の退去が決定したのが7月3日である(『維新史料綱要』)英艦のホープ中将が対馬に着いてビリレフに退去を勧告したのは決定から3週間後の7月23日。

しかし、ビリレフは応ぜず、3日後にリハチョ フの退去指令が届き、実際に露艦ポサドニックが対馬を退去したのはホープの勧告の23日後(8月15日)である。とても「英艦への活動により露国ポサドニク艦が退去した」とはいえない。

勝海舟は後世に「氷川清話」において自分が英公司オールコックに内密に頼み込んで退去させたと言っているが時系列に対馬の露艦退去を整理すると勝海舟のお得意の虚言と言われても仕方がない・・・

函館外国人墓地内・露国墓地

にはポサドニク艦乗員の墓碑7基あります。

 

まとめ

函館は面白い

歴史地理いろいろある

 

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